M&A全般

【銀行→投資会社→IT企業】50年の経験とM&A-エヌヴイ・コミュニケーションズ相談役・熊田恒雄による連載コラム②前半-

第2回:投資会社の事業再生とM&A(前半)

 

アジア諸国への憧憬

 

「ぼくの将来の夢」として、小学校5年の時の作文を見ると「国連事務総長になりたい」というものだった。

 

当時コンゴ紛争を調停していた国連の事務総長、ハマーショルドがコンゴ上空で搭乗機墜落により死亡するという子供にも衝撃的な事件が起き、ニュースでも、親たちの間でも大きく話題になっていた。

 

また、大蔵省に入省した親族中の自慢の従兄が書記官としてモスクワに赴任したこともあり、私の夢は大きく世界に向いていたと思われる。

 

大学で専攻したゼミではキンドルバーガーの「経済発展論」や「国際資本移動論」、ミュルダールの「アジアのドラマ」に強く惹かれ、太平洋戦争後独立を果たしたものの、長い経済の停滞に苦しむアジア諸国の経済開発に強く興味を持つに至った。

 

大戦後、南北問題として国連も大きく取り上げ、先進各国による途上国援助を強化するも、開発に結び付かず、「国連開発の10年」は「援助より貿易を」を推進するも、これも成長には結びつかない情況が続いた。

 

1970年代に至り途上国の資本不足の問題が取り上げられ、先進諸国の国際化と、直接資本移動が、開発途上国の経済発展に結び付くことが認識されるようになった。

 

大学卒業が間近になり、就職活動にあたり、日本の高度成長、国際化の中で、アジアへ展開する日本企業のファイナンスにおいて、目立った動きをしている東京銀行を希望したのは自然の流れであった。

 

しかしながら私の略歴でも紹介の通り、東京銀行では一貫して国内企業融資と米国駐在に終始しアジアへの思いは果たせぬままであった。

 

銀行から投資の世界へ

 

銀行を定年退職するに当たり、米国駐在の際もインテルやマイクロソフトなど新技術を持ったベンチャーを育てるベンチャーキャピタルや投資ファンドの目覚ましい活躍を目の当たりにしており、独立系ベンチャーキャピタルとして、アジア、日本のマーケットをカバーする投資会社である「日本アジア投資」を第二の職場として選んだ。

 

ユニコーンを見つけるベンチャー投資には、長い経験と、技術を見る目が必要であり、銀行員として長い間B/SとP/Lという事業実績をベースとする融資の経験からは極めて難解な判断を要するものであった。

 

私の役割はCFOとして管理本部の財務経理を管掌し、日本アジア投資がジャスダックから東証1部への上場を果たす一方、投資事業のもう一本の柱として新たに事業再生投資に乗り出し、バリュー投資によって、投資先企業が、再上場、M&Aによってキャピタルゲインを得ることを狙い、この分野を管掌することとなった。

 

 

シンガポールでの買収、合併、売却ディール

 

 2000年代バブル後遺症から多くの商社も厳しい冬の時代を迎えており、海外事業からの撤退の動きがみられた。

 

シンガポールにおいて東棉は建材リース事業の売却の動きがあり、この現地法人を買収、投資子会社として運営するため、東棉出身の経営者はそのまま経営に残した。

 

続いて現地資本と合弁会社を運営していた丸紅の建材リース事業からの撤退に当たり、この合弁会社も買収し、ただちに東棉から買収した投資子会社と合併させ、シンガポールにおける仮設建材リース事業市場の最大のシェアを確保した。

 

そして、従来からダウンタウンの再開発が見込まれるシンガポール市場に高い関心を持っていた、日本の仮設建材大手H社に売却、東棉建材リース買収から3年でキャピタルゲインを上げる投資事業となった。

 

 

投資のポイント

  • マーケットで一定のシェアを持ちながら撤退する企業の情報のキャッチと、買収ニーズを持つ企業情報の把握。
  • 撤退は安く買え、マーケットシェアを上げて高く売る。

 

 

-後半に続く-

 

執筆者紹介 エヌヴイ・コミュニケーションズ株式会社 相談役 熊田恒雄 氏
1947年 東京生
1971年 横浜市立大学商学部卒
1971年 東京銀行(現三菱UFJ銀行)入行   本店営業部、新橋支店、ヒューストン、ロサンジェルス融資担当
1993年 ダラス支店長、ヒューストン支店長
1997年 理事横浜支店長
2000年 日本アジア投資会社常務、専務を経て2008年退任
2008年 エヌヴイコミュニケーションズ株式会社社長、会長を経て現相談役